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ケアマネのつぶやき

今日の「棄老」

「敬老」という言葉が使われるようになって久しい。老人福祉法第二条には、老人福祉の基本的理念として「豊富な知識と経験を有するものとして敬愛されるとともに、・・・・」と格調高く宣言されている。

 今日、建前は「敬老」である。しかし、「棄老」ともいうべき現実や意識がなくなったわけではない。特に介護をめぐっては、介護放棄や虐待、思い余った介護家族による介護殺人すらまれなことではない。日本は世界でも有数の高齢者の自殺の多い国でもある。

 高齢者が増えて社会保障費用が膨らみ大変な社会になるという「高齢者負担論」「高齢社会危機論」というのもその根底には「高齢者は役に立たないやっかいもの」といった社会的意識を増幅させる役割をはたしている。「年寄りが増えると社会は大変になるといわれると、我々老人は肩身が狭い・・・」という高齢者の呟きにそれをみることができる。

 言葉としては「敬老」を叫び、「お年寄りを大切にしょう」という。しかし、棄老や殺老が隠然として行われている現実、高齢者は「やっかいもの」という社会的意識は否定しがたく存在している。

 ボーヴォワールはその著書「老い」の中で次ぎのようにのべている。「ある社会は、老人をどのように扱うかによって、その社会の原理と目的のしばしば注意深く隠蔽された真実の姿を赤裸々に露呈するのだ」と。

 ではボーヴォワールの言う、今日の社会の根底にある「原理と目的」とはなにか。

 そこにあるのは、能力主義と競争原理、経済至上主義の幽霊である。

 良い学校、良い会社をめざし、受験戦争は子どもと親を巻き込んで繰り広げられる。 良い成績をあげ、よりよいポストをめざす企業戦士にとって、過労死という言葉は他人ごとではない。そこで競争に勝ち抜くのは若さであり、速さであり、強さである。能力のあるものだけがその競争に勝ち残り、よりましなポストを手にいれることがでるのである。

 しかし、そうした能力主義と競争の社会では、そうした階段を上りえない弱者を生み出し、現実社会における弱者排除と差別を生み出している。 能力主義の社会とは、能力の優れた、ということが人間の値打ちを決める大きな要素となる社会である。若さも、速さも、強さももちあわせていない高齢者や障害者は、その社会では役にたたない、劣った、価値の低い人間として扱われざるをえない。

 こうした能力主義の考え方は我々の日常意識として存在しているし、子どもから、成人、お年寄りまでに大きな影を投げかけている。そして、高齢者を「人間として価値の低い者」「やっかいもの」として現代版「棄老」を「注意深く隠蔽された」社会的意識としてつくりだしている。

 もちろん大多数の子供たちは老いた親を最後まで、そして心ゆくまで介護してあげたいと願っている。しかし、そのことに伴って家族が支払わねばならぬ犠牲の大きさと、何よりも「お世話にならずにぽっくり死ねたら・・・・」というお年寄りの願いは、その困難性を如実に示しているのではないか。

 介護や福祉を専門にする者にとって、認知症になり、寝たきりで、もはや人に迷惑を掛けるだけのお荷物としか言えないお年寄りを前にして、人間の命、価値をどのように考えていくのか、人間の尊厳という理念と現実の狭間で、その実践の真価が問われるのであろう。

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