八十路の挑戦【Ⅱ】熊野市井戸町 鈴木美文
(2)作業療法士の鷲尾先生の「不可能はない」の言葉について
わたしは、自宅に来て戴く「訪問リハビリ」と送迎バスで病院に通う「通所リハビリ」を毎週二回ずつ受けていました。その通所リハビリ病院に毎週お見えになる、病院の顧問で作業療法士の鷲尾先生に出合ったことです。
リハビリ病院では「脳梗塞による麻痺は悲観的」にしか捉えられていないのですが、海外へも研修に出向かれるほどにご熱心な鷲尾先生は、拘縮で握りしめた私の拳を両手で持って何かを確かめられた後、「不可能はない」と励ましてくださったのです。
その言葉に、わたしは嬉しさのあまり、こみあげてきて、しばらく言葉が出なかったことを今も忘れることが出来ません。
それは、わたしが体験した真っ暗な長いトンネルを歩いて、やっと出口の光を見た時の感動と同じだったのです。
実は、私が大学3年の夏休み前のある日のことです。昭和34年7月15日に紀勢線が全通したのですが、この紀勢線は長いトンネルが多いことから、これまでの牽引車のD51という石炭車から全線ジーゼル車に変更なったのです。
その開通前に試運転車が走っている時のことでした。これまでの三重大学教育部の生物学科の2週間の臨海実習は志摩半島でのみ実施していたのです。
しかし、今年は夏季休暇前に紀勢線が全通するので、紀伊半島まで足を延ばし、ニ木島の荒坂中学校を借りて実施する事に決定したのです。
そのための事前調査の係を私達3年生の5名が選抜されたのでした。 そこで、わたし達5人は前日に阿曽の友人の家で一泊させて頂き、試運転車に乗せてもらう予定で、翌朝一番列車で試運転車の始発の九鬼駅に着きました。
早速、駅長さんに「乗せて戴けませんか」と、お伺いしたところ「とんでもな
い。」と、大変立腹した口調で乗車を拒否されてしまいました。わたし達は、トンネルの中をを歩けば2キロを余る長いトンネルをいくつも歩かなければなりません。矢ノ川峠を越えることの大変さから比べると比較にならないほどの近道なので、何とか黙認してもらえるように懇願しました。
幸い黙認してもらえることになったものの、何の準備していないわたし達は、一寸先が見えない真暗なトンネルの中を10数個歩かなければならないのです。
そこで考えたのが、手ごろな棒切れを拾って線路に添わせて歩くことです。5人はそれぞれ大声を出すことで、お互いの安否を確認し合って歩き出しました。
朝6時過ぎから歩き始めて、昼食もとらずにニ木島に着いたのは夕暮れ近くでした。ところが、目的のニ木島の手前の賀田トンネルの中で、後ろから異様な音が聞こえ始めたのです。
試運転車の音なのです。その音がだんだん大きくなってくるのです。後ろを振り向くと試運転車の明かりが見えました。わたし達は口々に大声で「トンネルの脇にふせよ」。と叫びあい、試運転車をやり過ごしたのでした。
その後、お互いの名前を大声で呼び、安否を確認し合ったのでした。
5人は「やった―着いたぞ!」と喜びの歓声を上げ、抱き合って喜んだものです。
真暗なトンネルの中で出口の光が見えた時の感動は、今も忘れることが出来ません。
鷲尾先生の「不可能はない」のお言葉は、この真暗なトンネルの中で前方の出口の光が見えた時の感動の体験と同じ嬉しさだったのです。
わたし達は次の日には、荒坂中学校の校長先生に許可を頂き、食事の賄の方をも紹介していただき、お願いに行きました。
午後は水泳の用意をして、磯浜に行って実験生物の有無を調べる本務に入り、磯の石をはぐったり海に潜ったりして確認した生物のメモをとったのでした。
そして、夏季休暇に入った7月23日から男女30余名の参加と2名の教授の付き添いのもと久々の紀伊半島における臨海実習を開始することが出来ました。
地域の方々からも大歓迎され、漁船で楯ケ崎の観光や千畳敷への上陸も経験させて頂いたのでした。
ところが、漁船には女学生が乗せてもらえないので、艪船に載せて私がその艪船の舵取りをしたのも、今となっては忘れられない体験です。
この章を閉じるに当たり、皆様に御願いがあります。
わたしは、お蔭で二年間のリハビリでも動かなかった指が、わずか四ケ月の自主訓練によって動き始め、歩行も足首を固定していた装具を取り外し、杖なしで不安定ながらも、50米は歩くことが出来るまでに恢復することが出来ました。
実は鹿島アントラーズの根拠地のサッカースタジアムの三階はランニングコースとして開放されており、そこを一周すると630mあるのですが、ここを休むことなく歩くことができました。
今後の訓練により、かなりの回復が期待できると思いますので、この先脳梗塞の後遺症で悩んでおられる方々と、ご一緒に訓練ができることが、わたしの残された人生の「いきがい」です。
「脳梗塞の後遺症」は治るのです。元気を出して、ご一緒に訓練しませんか。