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八十路の挑戦【Ⅲ】熊野市井戸町 鈴木 美文

【記号3】大勢の方々や友人の激励と親戚・家族の支えについて

発症から2週間が過ぎた頃、友人の勧めで津市のリハビリ専門の七栗記念病院に転医しました。最初は、衣服の脱着ができないばかりか、寝返りさえもできない状態で、車椅子に載せてもらって入院したのでした。洗濯物も病院で借用したバスタオルやパジャマをしていただけるだけなので、下着やその他の洗濯物は、親戚が毎週取りに来てくれたのでした。郵便物の投函や日用品の購入と爪切りもしてもらったのでした。また、普段履いていた靴下を履くにも15分間もかかることから、短いものを買ってきてくれたので、大助かりだったことも忘れることが出来ません。
 なお、その間、大勢の方々や友人のお見舞いや励ましのお言葉をいただきましたので、何としても回復しなければならないという気持になったのでした。
七栗記念病院は午前中は作業療法士先生による腕中心のリハビリ、午後は理学療法士先生による左足に装具を付けての歩行訓練をしました。なお、夜は、入院室の隣の相談室で自主トレをしました。しかし、2ケ月で退院しなければならなかったので、その後は、茨城県鹿嶋市の娘の嫁先で2年半に亙って厄介になりました。
退院したわたしは、娘の旦那の母親と3男の幼稚園の年長の孫と大学入試の大事な時期の次男の5人暮らしの家に突然ころがり込んだのでした。孫は幼稚園から帰ると、毎日のように祖母と3人で「桃太郎」や「ウサギとカメ」等々の寸劇をするのが楽しみでした。その孫との遊びに気がまぎれ、癒される思いでした。家内に先立たれてからの8年間は寂しい一人暮らしをしていましたので、孫のお蔭で賑やかな毎日を過ごすことができことが大きな心の支えとなったのです。
浴室は手すり等の完備はできていたのですが、入浴では情けないことに一人で入ることが出来ないので、娘に介助してもらわなければならなかったのです。わたしが脱衣場で衣服を脱いでいる間に、孫と娘が先に洗い場に入り、孫が折りたたみ椅子を準備してくれるのです。わたしは衣服を脱ぎながら「もういいかい?」と尋ねると、孫が「まあだだよ。」と応えます。しばらくして、準備が出来ると、孫が「もういいよ!」の合図をしてくれます。それを聞いたわたしは洗い場に入って、孫の準備してくれた椅子に座るのです。すると、孫が石鹸のついたタオルで背中を洗い、頭も洗剤をかけて洗ってくれるのです。突然の発症で自由の利かない身体ですから、弱気になっていたのですが、孫に救われたことは
言葉に言い表せないほどの有り難さでした。
 なお、1年後には何とか一人で入浴できるようになったのですが、浴槽から上がって脱衣場に出た瞬間にふらつき、入り口扉のガラスを麻痺側の左肘の反射的な肘鉄砲で割るという失敗もありました。
 その後、かなり回復した頃には孫が時には杖を持って、「杖なしで歩く」ように引っ張ってくれたことも、歩行の大きなリハビリになったのでした。
次に、このことにつきましては躊躇していたのですが、わたしの人生の中で生きる支えとなった最大の事柄ですので、お許し頂き記述させて頂きます。
わたしは12月の半ば過ぎに娘の嫁ぎ先の阪口家に厄介になったのですが、その翌年の4月のことでした。熊野市役所の市長公室長さんからの電話で「春の叙勲の候補になりましたが、受けられますか」という問い合せがあったのです。 
 突然のことで戸惑いましたが、現職時の仕事で叙勲に関係したことを思い出し、これは、「考えさせていただきます。」と言ってはいけない。と判断しましたので、即座に「身に余ることですが光栄なことですので、謹んでお受けさせて頂きます。」と応答させて頂いたところ、「4月末まで部外秘です。詳細については文書で通知します。」とのことでした。
 4月末には文書が頂き、授賞式は5月12日に国立劇場で行うこと等々の連絡がありました。家族に話すと、家族で皇居近くのホテルで一泊して授賞式に臨むことにするという嬉しい計画を立ててくれたのです。
 当日の朝は国立劇場まで送ってもらい、娘に車椅子を押してもらって受付をした後、式場の指定の席に向かいました。授賞者は文部科学省関係で700余名おりました。午後は、12台のバスで皇居に向かい天皇陛下に拝謁です。大広間に授賞者が並び、その後ろに少し間隔を開けて、授賞者の奥様方が整列しました。付き添いの娘たちは、皇居の一室の控え室で待機したのでした。わたし達車椅子の授賞者の20余名はカギの手に整列しました。
定刻になると、左前入り口の自動扉が開き、SP・陛下・SPの順に700余名の授賞者の前をお進みになられ、陛下は、中央で左に回られてステージにお上がりになられました。
すると、授賞者の代表の女性の方が出て、お礼のご挨拶をしました。
陛下は「皆は、社会の為・国の為に尽してくれました。」と述べられたあと、ステージの右の階段をお降りになられて、わたし達車椅子の授賞者の前を時々立ち止まられ、お声をお掛けになられながらお進みになられました。わたくしは車椅子の前列の最後尾でしたので、陛下は立ち止まられ、柔和な笑顔で「健康に気を付けてください。」とお声をおかけくださいました。わたくしは、ただただ有難く頭をさげるのが精一杯でした。
陛下はその後、授賞者と奥様方との間をお進みになられ、お入りになられた自動扉からお帰りになられたのでした。その間10数分間の拝謁でしたが、身に余る光栄であったとつくづく思います。
なお、その数日後には近くに住む親戚に呼びかけてくれて、授賞の祝賀会を盛大に催してくれたのでした。熊野で一人生活をしていたら、多分、授賞式への出席さえも出来なかったと思います。
このあと八十路の挑戦【Ⅳ】で記述させて頂きますが、堀尾氏は「脳梗塞は人生のご褒美だ」と言われましたが、脳梗塞で娘の嫁ぎ先で厄介になっており、娘夫婦の計らいで授賞式にも参加でき、皇居にも行かせてもらうことが出来ました。
堀尾氏の云われる「人生のご褒美」に加え、さらに大きなご褒美を頂いたのでした。本当に有難く心から感謝したいと思います。
なお、夏に熊野に帰った時にも、親戚が集まって、授賞の祝賀会をしてくれたのでした。また、先日は熊野還球会の会員の皆さんが祝賀会を催してくれました。本当に有難いことで、生涯の大きな思い出であります。
この「瑞宝双光章という叙勲」を拝受したことをいろいろと考えてみることにしました。
思い当たることを挙げさせていただくことをお許しください。
1つは、17年6ケ月間に亙る熊野市青少年育成市民会議における青少年の健全育成と児童生徒の安全確保について
① 熊野市青少年の育成会議の活動の組織化です。
② 自治会や町内会の役員さんやPTA役員さん方の協力のもと、児童生徒の登下校中の及び街中での安全確保活動の取り組みです。
③ PTA役員さんの協力のもと、学校図書の修理活動や児童生徒の悩み相談等の学校支援活動をしたことです。
2つは、6歳時に体験した東南海地震・津波について
① 体験記を津波絵本も含めて三集自費出版し、熊野市・南郡の小中学校図書館及び県立図書館寄贈すると共に・紀南医師会の先生方に進呈させて頂いたことです。
② 主に熊野市・南郡の小中学校・高等学校及び市民・町民・PTA・老人会の皆さんへの体験講話活動をしたことです。 
③ 紀南医師会の先生方の指摘により、ニ木島区,里区の皆さんの寄付による「森本福太郎翁の顕彰碑建立」のお世話をしたことです。
3つは、旧荒坂村古文書「郷土誌」及び「郷土誌(追記)」の発刊と荒坂中学校【私たちの郷土】三集の出版をしたことです。
① 「郷土誌」は波戸吉二郎氏の自費出版です
 この「郷土誌」は、大正5年に荒坂尋常小学校の大野善次郎校長先生が先生方の調査した内容を毛筆で書いた古文書です。それを、パソコンで打ち編集したものです。
② 「郷土誌(追記)」の発刊と3代の校長先生に亙る荒坂中学校の生徒が調査し文化祭で発表した、【私たちの郷土】をニ木島区民,里区民の寄付によって出版いたしました。
4つは、紀南及び三重県退職校長会の活性化と運営のお世話をしたことです。
以上が考えられますが、既に元号が変わりましたので、わたし達の授賞は、平成最後の授賞となったのです。
なお、皇居では授賞者の奥様方が同席しておられましたが、家内が既に他界していて出席もかなわず、内助の功に対してお礼の云えなかったことが悔やまれる思いです。
本当に身に余る光栄な事であります。今後も微力ながら社会の為に尽したいと考えております。
更に、娘夫婦のことを述べさせていただきます。娘夫婦は父親の興した建設会社を引き継ぎ、経営を改善し、創業45周年を迎えるまでに努力してきました。なお、母親の家事一切や孫の世話の支えのもと、3人で頑張って会社経営と孫たちの成長のために頑張ってきたのです。嬉しい限りです。
今では二人は建設業の皆さん方からも信頼され、地域にも貢献しようと地道に励んでいる様子を見たわたしは、この度、一層奮起させられたのでした。

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