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「私の年輪2」 新宮市 橋口嘉代さん

第1章「出生から終戦まで」  

 出生は、現在串本町古座となっていますが、旧大島村九竜島箱島等、由緒ある風光明媚な所で、四男六女の四女として生を受け、祖父母に父母、兄姉妹の大家族でしたが、意外と仲良く過ごした記憶が蘇ります。母親は大変だったと思います。

 衣食についても思い出が多々あります。食については特に工夫してくれました。自分でも衣食についてはその頃から関心はあり、今でもおいしくできれば母に「こんなにできたよ」「ありがとう」と独り言が自然に出てきます。

ふと小学校入学式のことを思い出しました。当日は父の同伴で、帰りにお菓子(板羊羹)を買ってもらったこと、赤いランドセルは六年生まで使用したこと、五年六年の担任の先生は絵や書道が素晴らしく、私も少々おかげをいただきました。そして六年生で女学校の受験、入学当初はゆったりとしていましたが、段々と戦況が厳しくなり、空襲の時は避難したこと、幸いにして古座の町は裏山があり空からは陰になり、その反対に串本方面が視界に入ったのか、軍事基地も設置されていたので大変だったそうです。

 戦時中は姉二人は挺身隊で大阪、兵庫に強制的に行かされ、兄三人はそれぞれ陸軍としてお国のためにと出征し、和歌山二十四部隊に入隊し、階級の違いこそあれ、長男と次男は中支(中国大陸の中部地方)、三男は中隊長としてニューギニアに派遣されました。出征時は家族で慰問袋を作ったこと、自家製の梅でエキスを作って入れたことを思い出します。畑仕事は残された家族で自給自足で、料理の上手な母の工夫で苦い思い出はありません。

今年も八月終戦後七十五年となりました。戦後長男は傷痍軍人として、次男は無事帰還しましたが、三男の兄はニューギニアにて戦病死と公報が入り、当時の母親の姿、家族の悲しみは七十五年の月日が過ぎても脳裏から離れません。昨年九月東京在住の甥が団体でニューギニアの慰霊祭に参加し、その時の様子をCDに収めてくれ、すべての行事を拝見しました。

各人が戦死されたり、他界された場所に案内されたようで、現地までは道なき道、谷川のせせらぎの上を車で行く様子が見られ、七十五年前そのままであると感じました。現地の方々も献花されている姿には頭が下がりました。また、道中に各宗派の方々の慰霊塔も建てられた場所もあり、とてもきれいに手入れされ、草花も植えられていましたが、錆びついた高射砲には草が青く茂っている景色もありました。海の色は変わらずきれいでした。各地で戦死、戦病死された兵士の方々に自然と頭が下がり、冥福を祈るばかりです。

終戦から七十五年、改めて心から黙祷を捧げる今日この頃です。

(つづく)

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