要介護高齢者の選択と家族(その1)
高齢者がその人生の最晩年において選択を迫られることがある。足腰も怪しくなり、物忘れで探し物に時間を費やすことが多くなった自分を自覚した高齢者は、今後どこで暮らしていくかということを考えなければならない時がくる。かってのように子供や孫に囲まれて暮らす高齢者の姿を見ることはほとんどなくなった。高齢になっても夫婦二人なら何とかなる。しかし、いずれの時かは高齢者一人の暮らしとならざるを得ない。その時この選択に直面する。
高齢者はそれまでも人生のうちでいくつかの選択をしてきた。そうしたいくつかの選択と決断の中でも、今回のこの選択は大変悩ましい決断が必要となる。もちろん、多くの高齢者は今まで暮らしてきた家で暮らし続けることを望んでいる。しかし、ある時点で、施設に入るか、都会の子どもたちを頼って故郷を出ていくことを選ぶか、それとも一人暮らしのリスクはあるがこのままでの生活を続けるか、そうした選択と決断に心を悩ますことになる。
施設入所を勧める家族や子供たち、しかし一方で今の暮らしを続けたいと願う高齢者の対立は決して珍しいことではない。むしろ対立というよりは、本意ではないが、これ以上子供たちに迷惑をかけられないと思う高齢者の配慮で事が決まることの方が多いのかもしれない。あるいは、周りの言うことをきかない頑固な老人というレッテルを貼られる高齢者もいるかもしれない。いずれにしても、高齢者の心も揺れていることが多い。
要介護高齢者がこの選択に悩むように、この時のケアマネジャーの心の中にも葛藤が生じる。要介護高齢者に寄り添い、個人の尊厳を守り、自己決定を支援するという価値を大切に考えると、今の暮らしの継続を望む高齢者の願いを何とか実現したいと考える、しかし、現実には子供たちの意向は強力に作用する。「老いては子に従え」という考え方は今でも根強いし、家族の意向が高齢者個人の意向よりも優先されるという日本の社会的常識、現実の前には、高齢者の尊厳や自己決定という対人援助の理念はむなしい言の葉になってしまいかねない。
ケアマネジメントを行う我々には基礎となる考えが存在する。ケアマネジメントの理念、あるいは価値と言われるもの。その考えとは「人権」「個人の尊厳」「自己決定の尊重」などの近代が作り出した理念である。ケアマネジメントを行う人は、これらの理念や価値をもとに、個人ごとに異なった背景を持つ高齢者の援助の方法を見つけていくことになる。
日本国憲法13条前段には、「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれている。
個人の尊重とは、一人ひとりの多様な意思、生き方を尊重するということ。言い換えれば、「自分の人生は自分で決める」ということで、これはまさに人権全体の根本だと言はれている。立憲主義の立場では、国家が一定の価値観で個人の人生を決めてはいけないということになる。国家だけでなく、人が相互に尊重しなければならないということであり、それは当然家族の中でも尊重しなければならないし、家族内の誰かが誰か(家族内での強者が弱者)の自己決定権を奪って、生き方を押し付けてはならないというのがこの精神である。
こうした個人の尊重という憲法の精神にもかかわらず、今の日本には家父長的原理に基づく家族主義という考え方は根強く残っている。日本における資本主義の発達は,封建的社会体制を完全には崩壊させず,むしろそれらを残存させ,強化する形で行われたという経過の中で,家族主義的価値体系が解体されることなく,あらゆる社会構造のなかに根強く持込まれていった。第2次世界大戦後,家族の実態(形態や機能)が大きく変化したにもかかわらず、こうした家族主義的な意識は根強く残ることとなった。「老いては子に従え」と自分の意志を飲み込んでしまう高齢者。今なお80歳を超える高齢者の中ではそうした意識は根強く残っている。老いた親を心配する子供たちも、親の意向を顧みることなくことをすすめることもすくなくない。
高齢者に介護が必要になったとき、どこで生活を営むかの自己決定は決して生易しい問題ではないと同時に、ケアマネジャーはその価値と高齢者と家族の現実に立ち止まらざるを得ない。その時、ケアマネジャーはどのような支援を行うことができるのであろうか。次回その問いにつて考えてみたい。