要介護高齢者の選択と家族(その2)
遠く離れて暮らす子供からみれば、ひとりで在宅の生活を続けさせることに不安がある。とりあえず施設入所をすれば生命と生活の安全は確保されると考えるのはよくわかる。一方、いつかは施設という選択は避けられないということは重々承知しながらも、故郷で、長年なじんできた我が家で可能な限り在宅での生活を続けたいと考える高齢者。
しかし考えてみれば、人生の岐路で如何なる選択が正しいか、そんなことは誰にも分からない。これは要介護高齢者の場合でも同じである。施設に入れば、在宅で生活するより長生きできるという保証はない。それに、高齢期の命の長さだけで評価することはできない。
問題は決定するのは誰かということなのである。高齢者の最終章の人生が、他者の力によって他律的、一方的に決められると、生きがいの喪失を生み出し、自発性、自立性を損なう結果となる。「自己決定権の喪失が目的疎外を生み、生きがい感の希薄化を招いている」(「生きがいの構造と人間発達」)という指摘は正鵠を得ている。
ただ、自分の人生を自分で決めるには一定の覚悟がいることも事実である。ヘルパーが朝訪問したら、亡くなっていたというリスクはなくならない。しかし各人はそれを、最終的には何者にも依存せず選び、しかもその帰結は自分で背負わなければならない。そこには在宅を選択する高齢者の強い意志も必要だと思う。そうした高齢者の決断を支持する子供たちにも覚悟が必要である。
とはいえこの選択をめぐって、高齢者の心も揺れる。このままの生活を続けたいという思いと、とりあえず安全が確保され、子供たちも安心してくれる施設を行くべきか。高齢者のこうしたアンビバレンス(両価的葛藤)な気持ちに対して、ケアマネジャーの支援の仕方はどうあるべきだろうか。
特に高齢者と子供たち家族の意向が明確に対立する場合、時としてケアマネジャーはこの抜き差しならない対立に思考停止に陥ってしまうことがある。しかし、それでも対人援助の専門職としての役割放棄は避けなければならない。
まずケアマネジャーが高齢者としっかり向き合うと同時に、常識や自らの意見を押しつけないことが大切だと考える。そして子供と高齢者の意見が対立するときは、あくまでその間での中立性を保つべきだと考える。高齢者の気持ちを受容し、共感的関わりが必要である。そして、対話を通じて高齢者自身が問題を整理し結論を見出していく援助の過程で、ケアマネジャーは情報を提供する。しかし決して不用意な助言や恣意的な情報操作はしない。こうした援助には時間がかかる。ケアマネジャーはこの時間を確保するようしなければならないと考える。そのために子供たちに働きかけることも必要であろう。
多くのケアマネジャーは高齢者が希望すれば可能な限り在宅での生活を支援したいと考えている。しかし同時に、介護保険の限界も知っている。日中はヘルパーやデイサービスでカバーできる・・・・。しかし夜はどうなるの、という質問にケアマネジャーは答える術を持っていない。それに介護保険には利用できる限度額がそれぞれの要介護度別に決められているので、その限度額を越えれば実費負担となる。その限度額は、在宅で一人での要介護者を支えるには低すぎる。
介護の社会化と言い、介護を家族から社会の手にということで介護保険が始まって20年を超えた。しかし介護保険の設計はあくまで家族介護の補完であって、介護保険だけでは、一人暮らしの寝たきりや重度の認知症の要介護高齢者を在宅で見切るものとは制度上なっていない。
要介護高齢者となっても、家族に遠慮し、高齢者自身の希望を無視することなく、自分の意志で選択し、高齢者が「生きて行く価値がある」時間を過ごすことができるような援助の仕組みを、介護保険だけではなく、公的、私的資源を動員して、作り上げる必要があるのではないかと考えている。