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ケアマネのつぶやき

年老いて生きる意味

超高齢社会は、だれもが長い老年期を過ごすことになった。死までの道のりが長く、ゆっくりになったことが、これまでの高齢期には問題となることが少なかった「老いて生きる意味」「高齢者の生きがい」の問題を生み出している。

この問題について新藤由紀は「絶望老人」の中で次のように記している。

「途方もなく長くなった老いて生きる日々は、それまでの自身が備えてきたものの上に成り立つという事実だけだ。自分の人生の帳尻は、必ず自分で合わせることになる。」

「どのように生きても、その人の、その人だけの人生である。命の限り悔いなく生ききれたか。幾度か心震える瞬間を得て、折々に多種の達成感を味わえたか。『生まれてきてよかった』と思える瞬間をいくつ数えられたか。その充実感と納得度だけが本人の幸せの指標となる。・・・・『老いの幸福』は自身が生涯の中ではぐくみ、内包してきものに、ほのかに宿って、静かに輝きを増していく。」

こうした新藤由紀の指摘を待つまでもなく、ケアマネジャーとしてその高齢者の最晩年に係ると、所詮「人は生きてきたように死んでいく」という真理をかみしめざるを得ないことが多々ある。

こうした諦観を認めつつも、一方でケアマネジャーは目の前の高齢者がどのように生きてきたかを理解しようとする。高齢者の今は、あらゆる面でこれまでの人生の上に成り立っている、といえるからである。利用者の歴史的経過(ライフヒストリー)の中での今の問題を見ることにより問題の本質が見えてくることもある。今の問題は利用者の生活史の中でどのような意味をもつのか、という問はアセスメントをおこなう上で大切な視点である。

そうした意味で、ケアマネジャーにとって、高齢者の言葉に内包される意味の歴史的奥行を感じ取る想像力がもとめられる。「早くお迎えに来てほしい」という言葉の裏にある意味は・・・・・    

年老いて生きる意味を考える場合、こうした高齢者の心に分け入って考える視点と同時に「老いた人にどう処遇するかでその社会の姿がわかる」とボーヴォワールがその名著「老い」の中で指摘したように、この問題を考えるうえで社会的な視点も欠かせないと考える。

今日「能力に応じた」という考え方(能力主義)は広く一般に見られる考え方となっている。そして、生産性(どれだけ経済的に役にたつか)と競争が支配的な考え方となっている現在、能力の優れた、ということが人間の値打ちを決める大きな要素となっている。そうした中で、能力主義と効率万能主義は、その基準から外れたものを『弱者』としてはじきとばすこととなり、高齢者や障害者は『弱者』として社会の片隅に追いやられることとなる。そこでは「敬老」という言葉は建前の以外の何物でもない。特に今日の新自由主義は、声高には叫ばないものの「生きる価値のある人間」と「価値のない人間」の選択を迫ることになる。高齢者にとって「出番や役割」が大切だと言われているが、役割感の喪失は社会的に作り出される。「厄介者」意識はそんな中で確実に醸成されている。

「早くお迎えに来てほしい」という言葉は「役に立たなきゃ 生きてちゃいけないのですか」という高齢者の叫びかもしれない

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