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ケアマネのつぶやき

高齢者の在宅死は可能か

 高齢者の多くは、住み慣れた地域、我が家で最期まで「気ままに」、その人らしく終わりたいと思っている。同時に「寝たきりや認知症になったら施設に行くしかない」とも思っている。そうした高齢者のささやかな願いや思いに医療、介護関係者はどれほど真剣に応えられているのであろうか。ともすれば、誰も否定しえない安全と安心の名のもとに、高齢者のささやかな願いを奪ってはいないのであろうか。

 高齢期になって在宅で最期まで暮らすことは、多くのリスクを抱えて生きていくことになるのは否定できない。転倒の危険は至るところにある。病気が悪化したらという心配は尽きない。寝たきりになったら。ましてや認知症になったら。そして最後は「孤独死」と言われる最期が待っているかもしれない。   

離れて暮らしている家族はともかく老親の安心を求める。地域からは「一人暮らしの年寄りをほっておいてと」心配の声が上がる。そこで語られるのは、安全と安心という、だれも否定できない言葉である。「地獄への道は善意で敷き詰められている」のだ。それが誰のための安心かはともかくとしても。高齢者自身も「これ以上家族に迷惑をかけられない」とそのささやかな願いをあきらめるとき、ケアマネジャーは「このまま家で暮らしたい」と何度もつぶやいていた高齢者の思いを、そのささやかな願いに目をつむって施設探しにその仕事の方向を変える。この時「利用者本位」というケアマネジャーの理念やアドボカシーという対人援助職の果たすべき役割はいとも簡単に投げ捨てられてしまう。

長年ケ マネジャーの仕事をしていると、朝ヘルパーが訪問したら亡くなって発見され、ケアマネジャーに一報が届き、その場に立ち会ったという経験もした。その時は、「もっとああしていればよかったのでは・・・」という反省がないではないが、その方にとってそれが望んだものであったとすれば、決して不幸なことでもないし、「孤独死」と言われるものではない。そこにあるのは自らが選び取った在宅死ともいうべき自然で望ましい死の姿ではないのだろうか。

それがやむを得なかったものだとしても、ベッドに縛り付けられ、点滴の管をつけたまま、まともなコミュ二ケーションもなく、いずれ確実に訪れる死を待ち、そして最期を迎える高齢者に、天寿を全うしたというと、間違っても私は言えないと思っている。たとえ一人自宅で倒れていたとしても、それを選択した高齢者の方がはるかに天寿という言葉を送るにふさわしい。

もちろん入院や入所を否定するものではない。入院により必要な治療が行われ生命の維持が図られるであろう。しかし病院は決して生活の場ではない。むしろ治療、安全の名のもとに人間的な生活が奪われることを前提とした施設である。高齢者施設に入所し、心穏やかにその最後の時期を過ごされる多くの高齢者がいることもよく知っている。問題は高齢者が本意としてそれを選択できたかということであり、ケアマネジャーが高齢者の思いにどこまで寄り添うことができたかである。

在宅で最期を迎えたいという思いを実現するためにはいくつかの条件が必要である。その一つは本人の強い意志、覚悟である。当然家族からは「施設に入ったほうが・・・」と言われることが多い。この場合、家族がいない高齢者の方がその思いは叶いやすいかもしれない。いすれにしても、そうした不安を抱く家族も含めて、なるべく早い時期に、本人の希望を伝え、合意を作っておかないと在宅死を実現することは難しい。これは地域に暮らす親せきや知人も含めての話である。

もう一つは、医療、介護の在宅での看取りの体制を作っておくことは不可欠である。その体制はこの地でも徐々にではあるが実現しつつある。ただし問題は一人暮らしの高齢者の場合、つまり身近に家族がいない場合の課題は残る。介護保険には支給限度額というものがあり、今の介護保険で要介護5の利用できる限度額は362,170円となっているが、この限度額では一人暮らしの高齢者の場合、介護保険だけで在宅で支え切るのは難しい。そこでは家族の支援がどうしても必要となる。在宅で最期を迎えるためには、現状では家族の介護と介護サービスをうまく活用することは不可欠である。同時に、一人暮らしの高齢者も含めて在宅で最期までという願いを実現するためには介護保険の支給限度額の引き上げはどうしても実現しなければならない課題である。

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