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ケアマネのつぶやき

「新しい認知症観」

11月30日の新聞の片隅に、政府が29日、認知症施策推進本部を首相官邸で開いたことが報じられていた。この推進本部は今年1月に施行された認知症基本法に基づいて設置されたものである。ここで、今年の9月に公表されていた「認知症施策推進基本計画」の案を了承し、近く閣議決定することになっていると報じられていた。

改めてこの「認知症施策推進基本計画」案をダウンロードして読んでみた。この基本計画案では「新しい認知症観」という考え方(理念)が強調されている。この「新しい認知症観」について基本計画案の中では次のように説明されている。「認知症になったら何もできなくなるのではなく、認知症になってからも、一人一人が個人としてできること、やりたいことがあり、住み慣れた地域で仲間などとつながりながら、希望をもって自分らしく暮らし続けることができるという考え方である。」とされている。さらに「認知症の人を含めた国民一人一人が『新しい認知症観』にたち、認知症の人が自らの意志によって、多様な主体とともに、日常生活及び社会生活を営むことができる共生社会を作り上げて行く必要がある。」と続けている。

  この「新しい認知症観」はとても素晴らしい理念であることはだれも否定しようがないところである。ただし、私が日々のケアマネジャーとして活動している中で、多くの高齢者が語る「認知症になったら何もわからなくなる」「認知症だけにはなりたくない」「認知症になったら家にはいられない」という人々の常識との落差の大きさを改めて感じるとともに、そうした社会の実現の可能性に戸惑いすら感じざるを得ないというところが正直な感想である。いやそれは違和感といってもいい。

こうした私の感想がどこから来るものなのか。これは上記の文章でもふれられている「共生社会」という言葉にも同じような違和感をおぼえる。これらの違和感は、まず理念と現実とのギャップの大きさによるものとも考えられる。さらに理念の実現困難さを感じてしまうこれまでの経験からくるものかもしれない。福祉や人権等に関して、国や政府や学者が語る素晴らしい理念のいくつかは時とともに色あせ、今や語ることすらなくなった経験をしてきた。それは政治や行政のプロセスの問題か、はたまた国民の意識の問題か。
いずれにしても認知症ケアに係るケアマネジャーとしては、そうした地域の現実から出発するしかないのかと考えている。

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