自立を考える(その3)
映画「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」にみる自立
最近上映されている映画「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」を見てきました。
難病で車いす生活を強いられながらも、力強い生き様で多くの人々に影響を与えた実在の人物、鹿野靖明さんを、大泉洋が演じるヒューマンドラマです。映画では難病・筋ジストロフィーで、自分では食事も排泄も移動もできないため人の助けがないと生きていけないのに病院を飛び出して自立生活を始めた鹿野。そんな彼に振り回されながらも、出会いを機に変わっていく人々の物語が描かれます。
主人公の鹿野は多くのボランティアに支えられながら在宅で暮らしています。時としてはそのボランティアと衝突しながら、医師からは入院を勧められながら、無謀とも思える在宅の生活にこだわります。そこには、たとえ障害があっても、自分の人生は自分で決めるという強い意志が貫かれているようです。
支えられた自立
ここで描かれているのは、多くのボランティアに支えられた自立です。鹿野の目指す生活は、次の言葉に象徴される障害者の自立生活運動の考え方です。「障害者が他の手助けをより多く必要とする事実があっても、その障害者がより依存的であることには必ずしもならない。人の助けを借りて15分かかって衣服を着、社会参加しえる人間は、自分で衣服を着るのに2時間かかるために家にいるほかない人間より自立している」という。
自立とは、人の世話にならないこと、あるいは動作が自立することと考えがちである。むしろ、逆に、たとえどんなに重度な障害であっても、地域社会において、主体的に生き、その自己実現をはかることこそが、本物の自立である、と映画「こんな夜更けにバナナかよ」は語りかけているのです。
しかし、考えてみればこうした「支えられた自立」は決して障害者に限ったものではないと言えます。河合隼雄は依存と自立について次のように述べています。
「依存と自立は反対概念ではない。自分は自立していると思う大人の人は、いかに多くの人や物に『依存』している、ということを自覚することだろう。依存の自覚のないには困りものだが、依存することは、むしろ自立に必要なことではなかろうか。依存を排して自立しようと努力しすぎた人は『孤立』してしまう」 「対話する人間」P33河合隼雄著)