高齢期と孤独(その1)
「以前は近所の人が毎日遊びに来て多勢でにぎやかにしていたが、皆亡くなったり、施設へ行ったりして誰もいなくなり、大変淋しい」「同級生もみんな亡くなった。近くには話し相手もいない」と孤独を訴える高齢者は多い。
人は人とつながることで人間となる。これはホモサピエンス以来の人間の特質である。
当初はごく普通の夫婦であった。何があったのか、そのうち妻が徐々に金遣いが派手になっていった。そうするとその夫は、妻の金遣いの派手さが気になって仕方がなくなり、逆に金遣いには厳しいしまり屋になっていった。これはよくある話で、心理学では補足性の原理という。
毎年といっていいほど様々な災害が、日々の平安な暮らしを襲う。災害はいつも突然にやってくる。そして失われた日常のありがたさに気づくのもそんなとき。同時に改めて、災害の中で、互いに支えあうこと、人の絆の大切さに気づくことになる。
「空気のような存在」という言葉が使われるのは長年連れ添った夫婦の間の関係を表すことが多い。地球上の生物は、空気がないと生きていけない、なくてはならないものです。でも、長年連れ添った夫婦にとって、空気があるのが当たり前のように、普段はお互いの存在を意識して、感謝することは少ない。失って初めてその存在の大切さ、支えられていた自分に気付く。
こうした人間関係を仏教では「縁起」と呼び、すべての物は単独で孤立して存在するものはなく、持ちつ持たれつという相互依存の中ですべての物は存在していえると考える。人間は、生まれたときは全面的に親の介護を必要とし、この世を去るときも介護を受けて旅立っていく。人間の存在は本質的に『人に迷惑を掛け、支えられて生きる』『一人では生きられない』存在なのだ。
しかし、老いとともに、孤独という問題は避けて通れなくなり、冒頭の高齢者の嘆きとなる。高齢期は心身の健康の喪失と同時にこれまで培ってきた社会的繋がりの喪失の時期である。時としてそれは生きる目標の喪失をもたらすこともある。こうした喪失感が現状への孤立感、不安感をもたらし、特に身体的機能の喪失(運動器・感覚器)は精神的世界を狭める。周囲の人たちといい関係を結ぶことができないと、時にはうつや妄想等の様々な精神症状をきたすことすらある。もちろん、孤独は決して高齢者だけにあるものではなくそれぞれの世代にもある。ただし、高齢者のそれは精神的、身体的にもたらす影響は、他の世代より大きいと考えられる。最悪は孤独死や無縁死といわれる現代の老いと孤立、そして死のありようである。
こうした高齢者の孤独や孤立に対し、ケアマネジメントはどんな回答を用意しているのであろうか。