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ケアマネのつぶやき

高齢者の孤独

  高齢者の孤立ということを考えてきたが、ここでは少し整理しておく必要があることとして、孤立と孤独の違いについてふれておきたい。

この点ではイギリスの社会学者のピーター・タウンゼントは孤立と孤独について次のように述べている。「社会的に孤立しているというのは、家族とコミュニティとほとんど接触がないことであり、孤独であるというのは、仲間づきあいの欠如あるいは喪失による好ましからざる感じを持つこと」。つまり、孤立とは「家族やコミュニティとはほとんど接触がないという」客観的な状態であり、孤独は「なかまづきあいの欠如あるいは喪失による好ましからざる感じ」つまり主観的ものであるということであるとしている。

ジョン・T・カシオポは「孤独の科学」という著書の中で「孤独感は社会的な痛み」として次のように説明している。「進化の結果、人間は孤立すると居心地が悪いばかりか、身体的な脅威に直面した時のような不安感を抱く。」「熱いフライパンにふれたら指を引っ込めるように、身体的な痛みを感じれば行動を変えることが促されると同じで、孤独感は、人間が社会的なつながりにもっと注意を払い、他者を求め、ほつれたり切れたりした絆を修復するのを促す刺激として発達した。」つまり、孤独感は人類が進化の中で獲得した、孤立した状態に対する「痛み」、つまり危険信号だと説明する。なかなか興味のある指摘である。

孤独感を「社会的な痛み」ととらえるなら、その痛みに対する処方が必要となる。我々はどのような処方を示しうるであろうか。失われた絆を取り戻すまず第一の選択肢は家族のつながりである。しかし家族のきずなの修復にはなかなか難しい問題もある。

都会に住む子供を頼って同居を始めた高齢者から、「さみしい・・・。一部屋もらって大事にしてもらえるが、ここにいても何もすることが無い。」という手紙をもらった。介護が必要になって、一人暮らしを断念し家族と同居を始めた高齢者を訪問し、孤独感を訴えられることがある。逆に、一人暮らしを続ける女性の高齢者から、「今が自由で一番幸せ」という話を聞くことはしばしばある。これはいったい何だろうかと考える。文字どおり一人でいることと、孤独を感じる主観的な経験とは同じではないということを意味するこうした事実をどのように考えるべきであろうか。

たとえ親子が同居したとしても、その関係性により高齢者の孤独感が解消するかどうかはわからない。親をみるのは子の責任として引き取ったものの、これまでのお互いの関係の中で、何らかの確執を抱えていたり、老いた親の姿を受け止められない子供の思い等さまざまな理由でうまく関係性を作れない場合、高齢者の孤独は老いの身にこたえるものになるであろうことは想像に難くない。また、高齢者自身がそれまでの人生の過程で培ってきた他者との繋がり方にその原因がある場合もあるかもしれない。この関係性の修復にケアマネジャーはどれほどの役割を果たせるのであろうか。

長年の配偶者や家族の世話から解放された高齢の女性が「今が自由で一番幸せ」と話すことは妙に説得力をもって聞こえる。この「幸せ」は一人暮らしの孤独感を越えて実感されるのかもしれない。同時に、この「幸せ」は女性のみが実感しうるもので、男性には、今のところその「幸せ」が実感されることはないのであろう。いずれにしても家族という存在は、高齢者の孤独に対して万能ではないことは確かなようである。

時折、90歳を超える超高齢者にそうした孤独感を感じさせない、あるいはそうした状況をしっかり受け入れているかのような高齢者に出会う。中高年の価値観をまだ引きずっている前期高齢者といわれる人々とは少し違った姿を見出すことがある。これが何によってもたらされるものなのか。単に個人的な要因によるものか。超高齢という年齢によるものか。 人生百年といわれる時代をむかえ、興味のある課題だと思っている。

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