ウクライナの人々の悲惨から
先日ある高齢者を訪問した際、ウクライナへのロシアの侵攻が話題になった。ひどいことがウクライナで起こっているという話から、「うちの兄も戦争で南方へ行き戦死した、戦死したことを知ってから母親はずいぶん長く悲しんでいた」と語ってくれた。でも私は心の中で「あなたのお兄さんは志願して兵隊になり、南方という見知らぬ国に攻めて行って、食べるものもなく餓死したのでしょう。今、ウクライナで起こっていることは罪もない市民や子供が無差別にミサイル攻撃で大量に死んでいっているのです。それはちょっと違うんでは・・・・」と思ったが、口に出すことはしなかった。しかし日本の高齢者のこうした戦争観に対して微妙な違和感を覚えることとなった。
今、ロシアが侵攻中のウクライナで、民間人の犠牲が急増している。原子力発電所など核関連施設への攻撃や、学校・病院への無差別攻撃も相次いでいると聞く。このような非道なことを許してはいけないと思うと同時に、何とかこの戦争を止められないのかと、なんとも苛立たしい思いに駆り立てられる。
連日報道されているロシアのウクライナへの侵攻から考えさせられることがある。その一つは、ウクライナから届けられる悲惨な被害の情報の発信と、ロシア内部での言論統制、言論や報道の自由への統制という対比である。ロシアのネット統制はウクライナに侵攻した2月24日以降過激化している。3月4日には虚偽の情報を広げた場合に刑事罰を科す改正法が成立したと聞く。言論や報道の自由がいかに平和のために重要なのかを思い知る。かって日本も大本営発表という報道しか許されなかったことがあった。いま日本のマスコミは、権力に対する批判の役割を果たしているのであろうか。権力に忖度したマスコミになってはいないか。それを日本のマスコミは己の立ち位置を、ロシアのウクライナ侵攻から学ぶべきであろう。
もう一つは、戦争の始まりは自国及び自国民の「防衛」から始まるということである、「特別軍事作戦」と呼ぶウクライナ侵攻については、「自衛のための唯一の選択肢」とロシアは正当化している。ロシアとロシア国民の安全のために今回のウクライナ侵攻が始まったのである。これは1931年当時の日本国政府は、中国北部の鉄道権益と日本人居留民の保護を目的とし中国に軍隊を派遣し戦争を始めた事と大して変わりはない。大昔の戦争はいざ知らず、近現代のあらゆる戦争は「自衛」という名目のもとで始まるということを、我々は今回のロシアのウクライナ侵攻から再確認することが大切であると考える。この点では日本国憲法がその9条において、自衛の名においても他国への軍事侵攻を禁止していることに注目すべきである。
いずれにしても、こうしている中でもウクライナの市民が無残な死を遂げているという事実は続いている。